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大阪地方裁判所 昭和60年(ワ)7963号 判決 1988年3月07日

原告

水上重一

原告

水上一憲

原告

水上美智子

右原告三名訴訟代理人弁護士

永田真理

被告

裏辻医院こと

裏辻康秀

右訴訟代理人弁護士

前川信夫

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告水上重一に対し金五五〇万円、同水上一憲及び同美智子に対し各金一八三万三三三三円並びにこれらの各金員に対する昭和六〇年一〇月一〇日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

原告水上重一(以下「原告重一」という。)は、死亡当時六三歳であった亡水上テイ(以下「テイ」という。)の夫であり、原告水上一憲(以下「原告一憲」という。)及び原告水上美智子(以下「原告美智子」という。)は、いずれも原告重一とテイとの間の子である。

被告は、肩書住所地で、裏辻医院の名称で医院を開業している内科医師である。

2  診療契約の成立

テイは、昭和五九年八月二八日被告に対し腹部の異常、食欲不振を主訴として診療を求め、病状の解明、治療を依頼し、被告はこれを承諾したので、両者の間に右診療を目的とする準委任契約(以下「本件診療契約」という。)が締結された。

3  テイの診療経過とその死亡

(一) 被告は、右同日テイを十二指腸潰瘍と診断し、宮田レントゲン科における消化器官のレントゲン検査を指示し、テイは右検査を受けた。被告は、同月三〇日右検査結果からもテイが十二指腸潰瘍であることを確認し、クロケール投薬の治療を施した。

(二) テイの症状はクロケールを服用しても好転しないため、テイは同年九月四日被告医院に赴きその旨を訴えた。そこで、被告は投薬をクロケールからコランチルに切り換える治療を施した。

(三) しかるにテイの症状は悪化し、そのうち目まいや腰痛を覚えるようになったので、テイは、同月二一日被告医院に赴いてその旨を訴えたところ、被告は腰痛症と診断し、セレナール、ベンザリン等の精神安定剤や催眠剤の投薬治療を施した。

(四) その後もテイの症状は悪化するばかりで、食欲不振、睡眠不足に陥り、嘔吐を繰り返し、体重が激減していった。そこでテイは同年一〇月一九日、同年一一月五日にも被告医院を訪れ、その旨を訴えたが、被告は相変らず精神安定剤や催眠剤の投薬を施すのみであった。

(五) テイの病状は悪化の一途を辿り、手足のしびれを覚え、時折卒倒を起こすようになったため、テイは同月一九日その旨を訴えて、被告の診察を受けた。そこで、被告はテイに国立循環器病センター(以下「循環器病センター」という。)を紹介した。

(六) テイは、同月二二日循環器病センターに赴き、精密検査を受けたところ、検査結果は一二月四日に判明するが、余りにも症状が重いため即入院となった。右検査の結果、テイの症状は悪性新生物質の飛来による脳幹硬塞症のためであること、肝臓、腎臓にも転移癌を発生しており、しかも末期的症状を呈していることが明白となった。

(七) テイは、同年一二月二四日循環器病センターが癌について専門外であるとの理由で箕面市民病院に転院させられ、昭和六〇年一月一〇日同病院での諸検査の結果、原発部位を膵臓体部とする体部膵臓癌であることが明らかとなった。

(八) テイは、同病院において、手遅れとの理由で何の対症治療も施されなかったため、同年一月二四日大阪大学微生物研究所附属病院(以下「阪大微研附属病院」という。)に転院し、治療を受けたが、同年二月二五日膵臓癌により死亡した。

4  被告の責任

(一) 被告は、本件診療契約の成立により善良な管理者の注意義務をもって医師としての専門的知識、経験を基礎として、その当時における医学水準に照らし、地域の診療所における開業医として十分な診療行為をなすべき義務を負ったものである。

しかるに、被告は後述のとおり、診療契約に基づく債務の本旨に従った履行を怠り、又は注意義務に違反する不法行為を行った。

(二) テイは十二指腸潰瘍や腰痛症ではなく、その症状は膵臓癌に起因するものであったから、被告の診断は誤っていた。そして、被告が右のような誤診をしなければ、適切な検査が実施されることにより、テイの真の病名を早期に認識することが可能となり、もって後記のとおりその救命又は延命をすることができたと言うべきである。被告の右誤診は、腹部の異常を訴えたテイに対し、被告が医師として明白な徴候のない限り速断を避け、とりあえず消化器疾患を疑い、その鑑別診断のために種々の検査を行い、可能性として考えられる疾患の多い場合は経過観察をして、その病状の動きにより病名を判定すべき義務を怠り、テイの愁訴及び触診や疑問のあるレントゲン所見のみで漫然と十二指腸潰瘍と診断し、またその後のテイの腹部の不快感、悪心、腰痛、目まいの主訴や体重の減少等の病状の動きを十分かつ総合的にとらえず、単に腰痛症との診断を下したことによるものである。

(三) 仮に、被告の当初の十二指腸潰瘍との診断に誤りがなかったとしても、被告の右診断後のテイに対する診療行為には次のような注意義務の違反がある。

すなわち被告のような一般開業医は、地域社会と結びついたホーム・ドクターとして家庭単位の健康管理に当たり、患者について自己の手に負えない高度で科学的な検査や診療を必要とする疾患があると疑われる場合は、これを大規模医療機関に回送することによって、患者が早期に適切な検査及び診療を受けられるよう配慮すべき注意義務があると言うべきである。

テイの場合も、昭和五九年九月四日クロケールの服用のためテイがかえって具合が悪いと訴えた時、同月二一日腰痛を訴えた時、さらには一〇月一九日目まい、顔面のひきつり、頭重感があったと訴えた時のいずれかの時点で十二指腸潰瘍以外の疾患の存在に疑いを抱き、他の病気の可能性について考慮するか、新たな症状については原因不明であるとして何らかの検査を実施するか、あるいは大規模医療機関に転院を勧めるかするべきであったし、そうすることが可能であった。

しかるに、被告は漫然と対症療法を繰り返し、既に手遅れの状態になってから循環器病センターを紹介したにとどまったのであって、被告は前記注意義務に違反したものと言うべきである。

5  因果関係

近年膵臓癌の早期発見のための検査方法は急速に進歩しており、根治可能かつ永久治癒の可能性の高い直径二センチメートル以下のいわゆる小膵癌の段階における発見例も見受けられるに至っている。上腹部不定愁訴を訴える患者については、まず胃、十二指腸の形態変化の有無の把握、血中・尿アミラーゼ値の上昇の如何に留意することにより、かなり高率で膵臓癌が発見されうる。そのためには、十二指腸内視鏡による逆行性膵・胆管造影法(EROP)、CTスキャン、超音波診断などの精密検査をすすめる必要のあるのは当然である。本件においても、レントゲン検査結果の報告書によればテイの十二指腸には変形が見られたが、これは膵臓が腫れたことによって圧迫されたため見られた像である可能性はあった。また血液、尿の検査をしていれば、アミラーゼ値の上昇が認められた可能性もあったのである。

従って、被告が十二指腸潰瘍以外の病気の可能性を探るため、レントゲン読影を慎重に行い、早期に血液・尿検査を実施し、大規模医療機関への転院を実行していれば膵臓癌の早期発見の可能性も絶無ではなく、テイはその時点での症状に応ずる手術を初め、現代医学上可能とされる十分かつ適切な治療を受けることができ、死の結果を免れることができたか、少なくともいくばくかの延命の可能性があった。

また仮に死を免れなかったとしても、テイ及び原告らは、テイが早期に現代の医学水準に照らして適切かつ十分な治療を受けられるという期待を奪われた。

それゆえ、被告の前記注意義務違反とテイの死亡ないし死期が早められたこと、またはテイが現代の医学水準に照らして適切な治療を受けられなかったこととの間には、いずれも因果関係が存する。

6  損害

(一) テイの損害

テイは死亡当時六三歳であり、まだ約一九年の余命を有している。子どもも独立しシルバーライフを楽しもうという矢先、被告の誤診により癌患者としての適切な治療を受けられず死亡したもので、その精神的苦痛は甚大で、これを慰謝するには少なくとも金五〇〇万円を要する。

原告らは、右テイの損害賠償請求権を法定相続分に従い、原告重一はその二分の一である金二五〇万円を、原告一憲及び同美智子はその六分の一である各金八三万三三三三円(一円未満切捨)を相続した。

(二) 原告らの損害

原告重一は、テイと共に幸福な家庭を営んでいたところ、被告の過失により伴侶を奪われ、また原告一憲及び同美智子は母を失ったものであるから、その精神的苦痛は筆舌に尽し難いものがあり、これを慰謝するには原告重一については金三〇〇万円、原告一憲及び同美智子については各一〇〇万円を要する。

よって、原告らは、被告に対し、主位的に債務不履行による損害賠償請求権に基づき、予備的に不法行為による損害賠償請求権に基づき、原告重一は金五五〇万円、原告一憲及び同美智子は各金一八三万三三三三円並びに右各金員に対する訴状送達の日の翌日である昭和六〇年一〇月一〇日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1は認める。

2  同2は認め、同3(一)のうち、被告の指示によりテイが宮田レントゲン科において消化器官のレントゲン検査を受けたこと、被告が昭和五九年八月三〇日右検査結果等からテイの疾患を十二指腸潰瘍と診断し、クロケール等の投薬を施した事実は認め、その余は否認する。

3  同3(二)は認める。但し、被告がコランチルを投与したのは昭和五九年九月八日である。

4  同3(三)のうち、テイが昭和五九年九月二一日被告方に来院した際腰痛を訴え、被告が腰痛症の診断の下にセレナールやベンザリンなどを投与した事実は認めるが、その余は否認する。

目まいの主訴については、テイは被告に対し、数日前に目まいがあったので耳鼻科医に診てもらったところ一時的な現象かと言われたと話していたのであって、被告方に来院した際現実に目まいがあると訴えたわけではない。

5  同3(四)のうち、テイが昭和五九年一〇月一九日、同年一一月五日の両日被告方に来院して診察を受けた事実は認め、その余は否認する。

6  同3(五)のうち、テイが同年一一月一九日被告の診察を受け、被告がテイを循環器病センターに紹介した事実は認め、その余は否認する。

7  同3(六)、(七)は不知。

8  同4(一)の診療債務に関する主張は、右債務の基準となるのが医学水準であるとする点(医療水準である。)を除き認めるが、被告がその履行を怠ったとの事実は否認する。

9  同4(二)、(三)は否認する。

10  同5は争う。原告らの主張のような方法による膵臓癌の早期発見に関する主張については、そのような検査により膵臓癌を発見しうるのは症状が相当程度進行してからで、それも必らず発見できるとは限らない。

11  同6のうち、テイが死亡当時六三歳であったこと、原告らがテイの相続人である事実は認め、その余は争う。

三  被告の主張

1  被告のテイに対する診療行為には何ら医師としての注意義務に違反した点はなく、仮に何らかの義務違反行為があったとしても、被告にはその点につき過失がなかったものである。すなわち、テイの昭和五九年八月二八日今回の初診時の主訴は、上腹部に何かたまっているような感じがあるがセンナを服用しているので便通は規則的で正常であるとのことであり、被告は、上腹部を中心に腹部全体について圧痛や腫瘤、放散痛の有無などを入念に触診し、背部についても脊椎の両側にそって叩打痛の有無を確認し、さらに聴診によって腹部グル音を聴取したが、それらによって何の異常も見出されなかったのである。

そこで被告は、この段階においては一応消化不良や胃炎などを主として想定したうえ、テイに対し宮田レントゲン科におけるレントゲンの診断を指示した。また被告は、血液及び尿の検査をも実施しようとしたが、テイは最近他の病院で検査を受けており、異常なしとのことであったとしてこれを拒否し、そのため被告はこれを取り止めた。被告はレントゲンの診断が出るまでの間、一応ナウゼル(消化管運動調整剤)とワイパックス(安定剤)を投与することとして、二日後の来院をテイに指示した。

2  テイは同年八月三〇日、宮田レントゲン科で撮影したレントゲンフィルムと被告宛の宮田医師作成の診断結果報告書を持参して来院した。右報告書によると陳旧性十二指腸潰瘍(現症もある可能性)と胃腸炎が認められるとのことであった。

そこで被告も右レントゲンフィルムを検討するとともに、改めて腹部、背部につき入念に触診、打診等を実施したが、腹部は柔らかく圧痛や腫瘤、叩打痛等の異常はなかった。そこで、被告はこれらレントゲン像や診察結果等を総合してテイの症状を慢性の十二指腸潰瘍及び胃腸炎と診断した。

なおその際、テイは被告の投薬により上腹部の異常感は改善してきたとのことであったが、被告は胃腸炎については食事や生活の指導を内容とするパンフレットを同女に交付して守るよう指示し、ナウゼル、ワイパックスの他クロケール(抗潰瘍剤)を七日分投与した。

3  テイは同年八月四日に来院し、被告の投与したクロケールを飲むと違和感があるから返すと喧嘩腰で薬を突き返してきた。そのため被告は、このままでは患者との信頼関係が円満に維持できないのではないかと危惧し、テイに以前診療を受けていた病院など他の医療機関への転医を勧めた。

するとテイは、同年九月八日に娘に説得されたと言って再び来院し、クロケールの投与を求めたが、被告はこれが同女に適合しないことも考えて投与せず、代りにコランチル(制酸・抗潰瘍剤)を一〇日分投与して、引き続いての来院を指示した。

4  テイは同年九月二一日来院し、数日前目まいが起ったので耳鼻科医に診てもらったところ、一時的なものではないかと言われたと述べ、軽度の腰痛を訴えた。なお、被告が腹部を触診したところ、全体に柔らかく圧痛その他の異常所見は何ら認められなかった。そこで被告は腰痛症と診断し、前回同様の薬剤の他セレナール(精神安定剤)やベンザリン(催眠剤)をも追加して投与し、一〇日後の来院を指示した。

5  ところが、テイはその後約一か月経過した同年一〇月一九日に至って来院した。テイはその際腰痛は無くなったが、左口角がひきつる感じがし、これも話していると治ったなどと訴えるので、被告は一応軽度の三叉神経痛を想定し、前回の投薬から催眠剤を除いたものにビタミン剤を付加して四日分投与したが、四日後の同月二三日テイが来院した際には口角のひきつりは治癒していた。

そして同年一一月五日来院した際も、食事は普通に摂れているし、薬を飲んでいて調子が良いとのことであった。

6  テイは同年一一月一九日来院したが、その際には前日目まいや顔面のひきつり、頭重感等があったと訴えた。被告は、テイの以前(昭和五九年五月一四日)の来院の際高血圧症の主訴があったこと、テイが一貫して仮面のように表情が無い態度を示すことから何らかの神経症状の存在も疑われたので、同女の右の訴えがそれに関連するのではないかと想定し、この際念のため循環器系及び神経系の検査を受けさせておいた方が良いのではないかと判断して循環器病センターの脳血管内科を紹介した。

7  以上の次第で、被告がレントゲン検査や臨床所見からテイを十二指腸潰瘍と診断した点に誤りはなく、しかもその後、テイは上腹部痛や圧痛、食欲不振、腰背部叩打痛等膵臓癌の症状を疑うべき徴候は何ら認められなかったのであるから、被告に何らの診療上の過誤はない。

第三  証拠<省略>

理由

一(当事者間に争いがない事実)

請求原因1及び2の各事実、同3(一)の事実中、昭和五九年八月二八日の診察において被告がテイに宮田レントゲン科における消化器官のレントゲン検査受検を指示して、テイはこれを受検し、被告は右検査結果等からテイの疾患を十二指腸潰瘍と診断しクロケール等の投薬を施したこと、同3(二)の事実(但し、コランチルの投与の日については争いがある。)、同3(三)の事実中、テイが同年九月二一日来院した際腰痛を訴え、被告が腰痛症の診断の下にセレナールやベンザリン等を投与したこと、同3(四)の事実中、テイが同年一〇月一九日、同年一一月五日に被告方に来院して診察を受けたこと、同3(五)の事実中、テイが同年一一月一九日被告の診察を受け、被告はテイを循環器病センターに紹介したこと、同6の事実中、テイの死亡時の年齢と原告らがテイの相続人であることは当事者間に争いがない。

二(テイの診療経過)

右争いのない事実に、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められ、<証拠>中次の認定に反する部分は、後記のとおり採用しない。

1  テイは、昭和五九年八月二八日上腹部に何かたまっている感じ(以下「腹部膨満感」という。)を主訴として被告医院を訪れ被告の診察を受けた。被告は、テイに対し問診、聴・打診、腹部の触診等の診察を行い、テイから便通については漢方薬(センナ)を飲んでいるから規則的であるとの申し出を受けた。被告は、右診察の結果では特段の異常を認めることができなかったので、更に検査が必要と考え、血液と尿の検査をテイに勧めたが、テイは、前に小林病院と他にもう一つの医療機関で受診したが異常はなかったとして検査を断ったので、被告はそれ以上に勧めることはしなかった。しかし、被告は消化器官のレントゲン検査は必要と考えて、その受検をテイに勧め、宮田レントゲン科を紹介して、その結果を待つこととし、当日は消化管運動を調整するナウゼリンと精神安定剤ワイパックスを投与するにとどめた。この日のテイの血圧は最大血圧が一六八mmHg、最小血圧が一〇〇mmHgであった。なお、テイからはこの日食欲不振、体重減少の訴えはなかった。

2  テイは、同年八月二九日宮田レントゲン科において、消化器官のレントゲン検査を受けた。その結果宮田医師は、テイの症状につき結論として「陳旧性十二指腸潰瘍(現症も?)及び胃腸炎」との趣旨を記載したレントゲン検査結果報告書(乙第二号証)を作成し、これをテイに手渡した。

3  テイは、同年八月三〇日右レントゲン検査結果報告書を被告医院に持参し、被告の診察を受けた。テイによると腹部膨満感は改善しつつあるということであり、腹部も柔らかく圧痛はなかった。被告は、宮田医師撮影のレントゲン写真(検乙第一ないし第一三号証)及び右報告書をも参照して、テイの疾患を十二指腸潰瘍と診断し、テイに対し胃炎に関するパンフレットを交付するとともに、抗潰瘍剤クロケール七日分を投薬し、またナウゼリン、ワイパックスを継続投与した。この日のテイの最大血圧は一六〇mmHg、最小血圧は八六mmHgであった。

4  テイは、五日後の同年九月四日被告医院を訪れ、クロケールを服用したらかえって調子が悪くなったと強い調子で不満を述べ、右薬剤を返戻してきたので、被告は残りのクロケールを引き取るとともに薬代を返し、他の病院で診療を受けたらどうかとも述べた。この日はテイの血圧(最大血圧一四〇mmHg、最小血圧八四mmHg)を測ったほか、右の経緯のため十分診察しなかった。

5  テイは、同年九月八日被告医院を訪れて診察を受けた。被告は、クロケールに換えて抗潰瘍・制酸剤コランチルを新たに投薬するとともに、ナウゼリン、ワイパックスを継続投与した。この日のテイの最大血圧は一四四mmHg最小血圧は八六mmHgであった。

6  テイは、同年九月二一日被告方に来院し、従前症状の継続のほか腰痛を訴えた。被告は、通常の診察の結果異常が認められなかったので、前記レントゲン写真にみられる腰椎の老人性変化に伴う腰痛症との診断の下に注射(ネオラミンスリービー)を施し、安定剤セレナール、睡眠導入剤ベンザリン三日分を新たに投薬するとともに、コランチル一〇日分を継続投与した。

テイはこの日、数日前目まいがしたので耳鼻科医を受診したところ、検査の結果一時的なものかと言われた旨被告に述べ、被告は右症状はテイの高血圧傾向によるものではないかと考えた。この日のテイの最大血圧は一五八mmHg、最小血圧は九〇mmHgであった。

7  テイは、約一か月経過した同年一〇月一九日になって被告方に来院し、腹部膨満感が継続するほか、前に左口角がひきつる感じになったことがあったがその時は話していると楽になった旨、また趣味の編物をしている間は腹部膨満感を忘れた旨述べた。そこで、被告は新たにビタミン剤ビタメジンSを投与するとともに、セレナール、コランチルを継続投与した。この日のテイの最大血圧は一六〇mmHg、最小血圧は一一〇mmHgであった。

8  テイは、同年一〇月二三日前同様の腹部膨満感を訴えて被告方に来院したが、その際には左口角のひきつりはなく、被告はビタメジンS、セレナール、コランチルを継続投与した。この日のテイの最大血圧は一四八mmHg、最小血圧は九〇mmHgであった。

9  テイは、同年一一月五日前同様の症状を訴えて被告方に来院し、被告の問いに対し、食事は普通に摂れていること、薬を飲んだ方が調子が良いとの趣旨を述べた。そこで被告はビタメジンS、セレナール、コランチルを継続投与したが、この日は血圧を測定しなかった。

10  テイは、同月一九日被告方に来院し、前日目まいがありその他頭痛等がある旨を訴えた。被告は、右訴えにつきテイに平素高血圧傾向があることを併わせ考え、何らかの脳循環障害ないし神経障害がある疑いを抱き、精密検査の必要があると考えて、テイを循環器病センターの脳血管内科部門へ紹介することとした。この日のテイの最大血圧は一五〇mmHg、最小血圧は九六ないし一〇〇mmHgであった。

11  テイは、同月二〇日循環器病センターにおいて診察を受けた後の同年一二月二日起床時に左下肢脱力が出現し、同月三日起床時には左顔面、左上肢の脱力感も加わったとのことにより、精査の目的で同月四日同センターに入院して、血液検査のほか体部CTスキャン、Gaシンチ、胆汁及び尿細胞診、胃内視鏡等による精密検査を受けた。その結果、テイの症状は悪性新生物質の飛来による脳幹硬塞症のためであること、肝臓、腎臓に転移性の癌が見い出されること、しかも末期的症状を呈していることが明らかとなった。

12  テイは、同月二一日循環器病センターから箕面市民病院に転院し、精密検査の結果、昭和六〇年一月一〇日原発部位を膵臓体部とする体部膵臓癌であることが明らかとなった。

13  テイは、同年一月二四日箕面市民病院から阪大微研附属病院に転院し治療を受けたが、同年二月二五日膵臓癌のため死亡した。

右認定事実に関し、原告らは、テイが血液・尿検査を拒否することはその性格上考えられないというが、被告本人尋問の結果によれば、被告は、腹部の異常等を訴える患者については、通常右のような基礎的な検査を実施する取扱いをしていると供述しており、右結果によって認められる被告の医師としての経歴に照らせば、被告が右供述のような取扱いをしていることは優に首肯することができるところ、テイについて被告が右取扱いをすることを考えなかったことを認めるべき特段の事情のないこと、テイ死亡後初めて原告重一が被告方を訪れ、釈明を求めた際、被告は既に右拒否の事実を同原告に告げていたことが前記甲第三一号証により認められ、この段階において被告がことさら虚偽の事実を述べる事情の見当らないこと、前記乙第一号証のカルテの昭和五九年八月二八日の項にある「本年小林Hも?」との記載は、テイが被告に対し小林病院において受診したと供述したことを裏付けていることの諸点からすれば、右拒否の事実はこれを認めることができるものと言うべきである。また食欲不振との主訴については、原告らは、テイが被告に対しいずれかの診察時に食欲不振を訴えたはずである旨主張するところである。しかしながら、前記乙第一号証のカルテ及び前記甲第一七号証(検査依頼書)に食欲不振の主訴について記載がないこと、右カルテに被告が後に改ざんを加えた等の事跡の見当らないこと、甲第一二号証の循環器病センターにおけるカルテの現病歴欄にも、テイの食欲不振は昭和五九年一一月二八日から出現したと記載されていること(他の個所には同年八月頃から食欲不振があり、一一月二八日から更に食欲が低下したとの記載があるが、添付の成人用問診票へのテイの記載によっても、同年五月頃から胃の状態が悪くなったとのみ記載され、特に食欲不振を訴えていないことからすれば、やはり病的現象としてテイに把握される食欲減少は、同年一一月二八日頃から出現したものと認めるべきである。)を考慮すれば、テイにおいて、特に食欲の減少をとりあげてこれを被告の診察時に訴えたものと認めるのは困難であると言わざるをえないのである。

また原告重一本人尋問の結果には、右の点のほかテイの症状の発現時期等について右認定に反する部分がある。しかしながら右尋問の結果によれば、同原告は勤務の都合上家を明けることもあり、テイの病院通いに付き添って担当医から病状について説明を聞くなどのことをしたこともなく、テイから折々身体の状況や診察の結果などを聞いていたに過ぎず、必らずしもテイの症状を日々適確に把握していたものではないことが窺えるうえに、前記甲第三、第三二号証や右尋問結果によれば、同原告は、テイの死亡という結果に対し、生前夫として同女のため十分看護を尽さなかったのではないかとの自責の念を持つに至っていることが認められ、このような感情から同人のテイの病状や診療経過についての供述には、誇張や思い込み等が混入していることが考えられるのであって、これらのことからすれば、原告重一本人尋問の結果及び同原告の備忘録の類である甲第三一、第三二号証の右認定に反する部分はこれを採用できないと言わざるをえないのである。

三以上の事実によれば、被告は医師として昭和五九年八月二八日テイに対し、その当時においてその症状を医学的に解明し、これに応じた診療行為をする義務を負担したものと言うべきである。

四そこで以下、被告にテイに対する診療について右の義務の違反があったか否かを判断する。

1  原告らは、被告が当初のテイの疾患を十二指腸潰瘍と誤診し、その結果テイの膵臓癌の早期発見を不可能にした旨主張する。

<証拠>を総合すれば、十二指腸潰瘍の患者に一般的にみられる症状として上腹部痛、吐き気、背部痛、食欲不振、腹部膨満感があること、十二指腸潰瘍のレントゲン所見としては狭窄、変形、ニッシェ、タッシェがあること、一方膵臓癌の患者に一般的にみられる症状としては上腹部疼痛、体重減少、腫瘤触知、黄疸が主なものであって、右疾患に特有な症状というものはなく比較的初期にこれを疑うこと自体必らずしも容易でないうえ、特に膵体尾部癌は黄疸が出現しないか、出現しても末期になってからのことが多いうえ、膵頭部癌の場合には患部が肥大して十二指腸球部を圧迫することがあり、レントゲン像上十二指腸球部が変形してみられることがあることにより発見されることがあるが、膵体尾部癌ではそのような所見もないなど、膵体尾部癌は膵頭部癌に比較して一層発見が困難なものであることが認められる。

そして前記認定事実によれば、テイの当初の主訴は腹部膨満感のみであったというのであり、レントゲン検査の結果は、陳旧性十二指腸潰瘍であって現症もある疑いがあり、かつ胃炎もみられるとのことであって、触診や聴・打診の結果にも特段の異常は認められなかったというのであるから、右認定の十二指腸潰瘍の一般的症状を併わせ考えれば、テイの疾患を十二指腸潰瘍と診断したことをもって誤りと言うことはできないと言うべきである。

もっとも、前記甲第一八号証の九の十二指腸球部変形ないし潰瘍マイナスとの記載によれば、昭和五九年一二月三一日において箕面市民病院の担当医師は、テイについて十二指腸潰瘍の診断をしていなかったことが認められるが、右潰瘍は同年一二月三一日時点までに治癒した可能性もあり、このことをもってしては被告の診断を直ちに誤っていたとすることはできず、他にこの判断に反する事実を認めるべき証拠はないのである。

2  次に、原告らは被告の診断には、テイが断ったといって血液や尿検査を実施せず、またその後の症状の変化により他の病気を疑って転医又は検査をするべきであったのにこれをしなかった点に注意義務違反があると主張する。

(一) しかしながら、前認定のとおり、当初のテイの主訴は腹部膨満感があるというに過ぎず、被告の血液や尿検査の勧めに対しても必要でないと考えて断る程度の身体の状況であったのであり、触診、聴・打診によっても特段の異常は認められなかったというのであるから、この段階において被告が、テイについて重大な疾患への罹患を疑い精密検査や大規模病院への転医を勧めることは考えられなかったと言わざるをえないのである(なお、被告のような一般開業医としては、この程度の主訴であって、自分の身体の具合からわざわざ検査を受けるまでもないとして受検を嫌がっている患者を、強く説得してまで血液や尿検査を受けさせなければならない義務はないと言うべきである。)。

(二)  次に前認定のとおり、テイは同年九月四日被告にクロケールを飲んでも一向に症状が好転しない旨を、同年九月二一日には目まいと腰痛を、また同年一〇月一九日には左口角がひきつる感じになったことがあった旨をそれぞれ訴えており、これらの時点での被告の対応が問題となる。

まずクロケールの投薬に関する訴えについては、投薬後五、六日しか経ていない時点でのことであり、いまだ右投薬によって症状が好転しないとしてもこれのみで他の疾患の介在の可能性を考慮せよとするのは困難と言わざるをえず、たとえテイがクロケールの服用によってかえって具合が悪くなったと訴えたとしても、被告本人尋問の結果によれば一般に体質によって薬が患者に合わないことも通常あることであるというのであるから、このような事実があったからといって、被告に直ちに他の疾患の存在についても疑うことを要求するのも困難であると言うべきである。また前認定の事実によればこの点については、同年九月八日クロケールからコランチルに投薬を切り換えたところテイからの右のような訴えがなくなったというのであるから、被告が他の疾患の存在を疑わなかったのも止むをえなかったことと言わなければならない。

次に目まいの主訴については、被告はテイが耳鼻科医に診察を受け一時的なものと言われた旨告げたので、テイの高血圧的傾向によるものではないかと考え、それ以上主訴の原因について疑うことをしなかったというのであって、被告のような一般開業医の診療態度としてはこのような対応も止むをえないものと言うべく、これをもって他の疾患を考えるべきであったということも困難と言わざるをえないのである。

更に腰痛の主訴についても、前認定事実によれば、被告はさきのレントゲン写真にみられるテイの老人性変形によるものと考えたというのであり、テイの年齢を勘案すれば被告がこのような判断をしたことも止むをえないところと言わざるをえないのであって、これによって他の全身的疾患を疑うべきであったとも言うことはできないのである。

次に前認定事実によれば、被告はテイの左口角がひきつる感じがある旨の主訴を聞いたが、その主訴は前回の診察のほぼ一か月を経過した後の来院時のものであり、テイは同時にその主訴は話していると楽になったとか、趣味に熱中すると腹部膨満感を忘れたとも述べたというのであるから、やはり被告がこれによって他の重大な内臓疾患の存在を疑うべきであったとするのも困難と言うべきである。

もっとも前認定事実によれば、結果的にはテイの症状は八月二八日の今回初診時以来二か月余の投薬によって必らずしも好転せず、時に一か月近くの間隔を置くなどがあったにせよ重ねて被告方に診察を求めたのであり、その間右にみたような種々の症状の発現を訴えてきたのであるから、被告としてもこれらの事実を総合して少なくとも一〇月後半の段階においては他の内臓疾患の介在を疑って血液検査を初め各種精密検査を行い、必要があれば人的物的に施設の充実した大規模医療機関に転医させることとした方が望ましかったことは否定できないところである。

しかしながら前記認定のとおり、テイは平素から高血圧的傾向を有していたというのであるから、被告がテイの目まいや口角のひきつりといった主訴をこの高血圧的傾向と関連を有すると考えたのも止むをえないところであり、前示のとおり一般に膵臓癌、特に体尾部のそれの早期発見は容易でないというのであって、これに加え本件においては、テイからは腹部膨満感のほかには膵臓癌を疑うべき上腹部痛、食欲不振、体重激減等の訴えはなく、腹部触診、聴・打診等でも異常は認められず、かえってテイは被告に対し一〇月一九日においては、趣味に熱中していると腹部膨満感を忘れた旨述べており、一〇月二三日には顔のひきつりがなく、一一月五日にも食事は普通に摂っている、薬を飲んだ方が調子が良いと述べたりしたというのであって、投薬治療が一定の効果を挙げていると被告が考えたとしても止むをえない状況もみられ、少なくともテイが精密検査や転医を必要とするほど急を要すべき状態にあると被告が考えなかったのもいたしかたない状況であったと言わざるをえないのである。

また成立に争いのない甲第一〇、第一一号証及び被告本人尋問の結果によれば、血液・尿検査の基礎的な検査項目は赤血球数、白血球数、ヘモグロビン、ヘマトクリット、貧血検査、GOT、GPT、血清アミラーゼ及び尿アミラーゼ等であり、血清アミラーゼ、尿アミラーゼ等の検査により膵臓疾患を、さらに腫瘍マーカーとしてのCEA、CA19-9、エラスターゼ、血清LAP、AL-P、100gGTT、コリンエステラーゼ等の検査により癌疾患を発見するに至ることもありうるというのであるから、これらの点を考えると確かに結果的には被告において、その診療のいずれかの機会にテイに対し血液・尿検査を行うことが望ましかったものと言うべきである。

しかしながら前示のとおり、被告のような一般開業医としては、自己の身体の調子から血液・尿検査まで必要がないとしてその実施を断る患者を強く説得してまでその実施をさせるべき義務はないと言うべきであるし、前認定事実によれば、その後のテイの主訴は腹部膨満感以外は腰痛、目まい、左口角のひきつり等であって、血液・尿検査を必要とする内臓疾患より高血圧症や神経系の疾患を疑わしめるものであったというのであり、しかも腹部膨満感等の内臓疾患を疑わしめる主訴も必らずしも深刻なものではなく、むしろ快方に向っていると思わしめるような問診結果もみられるというのであるから、被告がその診察の機会に血液・尿検査を行うことをしなかったことも止むをえなかったところと言うべきである。

以上によれば、テイに十二指腸潰瘍以外の他の疾患の介在の可能性を考慮せず、同年一一月一九日に至るまで大規模医療機関への転医や精密検査の処置をとらなかったのも止むをえないところと言うべきであり、被告にそのことをもって医師として尽すべき注意義務違反があったと言うことはできないのである。

五以上の次第で、被告に対しテイへの診療行為につき、債務不履行または不法行為を構成すべき注意義務違反を認めることはできないと言わざるをえないから、本訴請求は理由がないものとしてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官中込秀樹 裁判官市川正巳 裁判官成瀬公博)

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